体験談

STORY 1

私の家族会                    くろかわななこ

一筋の光・家族会との出会い~前編                   

 私には薬物依存症の娘がいる。

 娘は、中学で摂食障害となり、精神科閉鎖病棟へ2年間入院、自殺未遂、隔離室、経管栄養。娘の生命、将来、何の希望もなくなり、改善しないまま夜間高校へ入学、やせ薬覚せい剤を使い、夜遊びや不良行動、私には暴言を吐く。もうどうにもならない状態になっていった。

 夫と相談し、地元の警察に娘を連れていき、覚せい剤使用で逮捕してもらいました。鑑別所で反省を見せた娘に希望を感じたのも束の間、夜遊び、暴言、そして再使用。今度は私だけで娘を連れて出頭し、覚せい剤使用で再逮捕してもらいました。自殺念慮もあるため、医療少年院へ送られ、その後群馬の榛名女子少年院へ。毎月泣きながら面会に行くものの、「覚せい剤は再発しやすいんだって」と娘から言われショックでした。坂を転がるように落ちていく娘に親として必死で対応していましたが、ダメ!ゼッタイ!!人間やめますか!!の薬を使った娘の親である私は、人に会いたくない、話したくない、買い物にも行きずらくなり、趣味のことをする気にもならない。いっそ私も一緒に死んでしまいたいと思う最悪の状態になっていました。でも、本人の弟(中学2年から不登校になった)を残してはいけないと思いとどまり、食事の味も季節を感じることもない生きる屍のようでした。娘が少年院にずっといてくれればと願うばかりでしたが、娘は「私は売人と連絡してしまうから携帯はいらない」と言っていたのに、出院すると人が変わったように私を脅し、携帯を要求、夜遊びが始まりました(T_T) もし、また覚せい剤を使ったら、夫は退職しかないと言い、私は娘の一挙一動が怖くてたまりませんでした。保護司さんとの面会ではおとなしく、「いい娘さんですね」と言われるも、一歩外に出ると塀を蹴り、「ふざけんじゃねえ、クソババア!!」私は悪魔を生んでしまったんだと思い、自分の人生、何もかもを嘆き絶望の底にいました。

 そんな時、娘は夜回り先生を頼り、「ダルクに行きたい」と言いました。ダルク???16年前まだダルクは世間に知られていませんでしたが、預かってくれるというダルクに、再使用を繰り返す娘を、藁をもすがる思いで、夫にも無断で始発電車で連れていきました。分かれた後、私にはどうすることもできないと思いつつも、子供を捨てた情けなさと悲しさに苛まされました。そのダルクから、「お母さんは家族会に行ってください!」と提案されたのです。

 毎月第3土日泊りの茨城ダルク家族会、初参加は衝撃でした。やくざ関係の家族がいる怖いところと.思っていた家族会は、100名程の普通の親御さんばかりでした。でも、話を聞くと、息子・娘が精神科・刑務所複数回や行方不明など壮絶な体験ばかりでしたが、不思議と笑顔でした。私は自分自身の格好も気にかけられない、笑うこともできない暗闇の中で息をしているような状態なのに、家族会の方はひどい状態を話しながら笑い、活き活きと生きている?! 私はその家族会で初めて誰にも話せない我が家の娘の薬物のことを震えながら話し、聞いてもらうことができました。そして、家族会には薬物依存症回復途上の本人がスタッフとして手伝っていて、私たちにコーヒー、お茶をサービスしてくれました。どう見ても薬物を使ったとは思えない普通の好青年ばかりでした。第1回目のビギナーの部屋での学びは、「あなたたちの子どもは薬物依存症という一生治らない病気で、死ぬこともある。家族には治せない、でも、回復はできる!!」エッ!!自殺を止めるのもムリ、犯罪者の親、育て方が悪くて親失格としか思っていなかった。私は依存症という病人の親で、親には治せない。涙がとめどなくあふれた。でも、ここ家族会には、ダルクの回復者、そして同じ経験をしたのに笑っている親がいた。一筋の光・希望を与えてくれた。とにかく通ってみよう♡と思った。

 それから家族会に出るたびに苦しさを話し楽になった。世間の常識とは違う、正しい依存症という病気も理解していった。16歳で自分からダルクへつながった娘がいたから私は家族会に繋がる事ができた奇跡。

 自分から行く人はほとんどいないというダルクへ自らつながった娘。うまくいってくれればと願ったが、現実は、依存症はそんなに甘くない。すぐ回復などしない。実際体験し、へこたれそうになった時も、とにかく家族会に参加し、自分を保つのがやっとだった。

 脱走、行方不明、自殺未遂と地獄は続く終わりの見えない不安、家族も精神的に追い込まれ、苦しく辛い。世間の風は冷たい。そんな私には家族会が心の支えとなっていた。

To be continued

娘の回復を祈って家族は何をすればいいのか?葛藤~中編

STORY 1

娘の回復を祈って・家族は何をしたらいいのか?葛藤~.中編

 娘は薬物をやめたかったのでしょう。自ら16歳でダルクへ入寮しました。

 そして、母である私は茨城ダルク家族会へ通い始めたのです。

 自ら回復施設に入る人は珍しいので「大丈夫!!」と言われましたが、すごく頑張るけれど、少しでもダメなことがあるとゼロか100、白黒思考、ネガティブになる娘(―ー;)

予感的中、3か月後自殺未遂!病院搬送、事後処理、ダルクの仲間が世話をしてくれました。私は仕事を休まないで、迷惑をかけずに済みました。ただただ感謝しました。命は助かり3か月後、今度は脱走し行方不明となりました。もう何が何だかわからない不安な毎日。監禁事件!!身元不明の事件!!ニュースのたびに最悪の想像をしました(T_T)。夜風が吹き雨が降れば…心配で眠れない時もありました。

 でも、家族会の仲間の話をたくさん聞いていたことと、私の途方もない不安を聞いてくれる仲間がいたことで、睡眠薬・抗不安薬は使わずに生活できました。しかし、世間へ顔向けができない!覚せい剤をまた使用しているかもしれない娘の親の私は外出や人と会うのを避けるようになりました。最小限の買い物を人と会わないように注意し、友人やサークルとの付き合いもやめ、仕事だけは生きるため、そしてこの状況を忘れようと、ワーカホリック的にのめりこみ、頭痛薬を常用しながら、どうしようもない不安から逃れるように複数の家族会や自助グループに通い、めまいで倒れたりしました。

 しばらくして娘は、夜回り先生を再度頼りました。元の茨城の施設には戻りたくないという娘を、夜回り先生・茨城ダルク施設長の提案で佐賀県の精神病院へ送っていきました。しかし、入院を承諾したはずの娘が待合室で豹変(>_<)「なんでまた!!精神病院なんだよ!!逃げて、柳川の夜の街に行ってやる!!」私はオロオロするばかりでしたが、どうにか入院できて、祈るのみでした。しかし、ほっとする間もなく、1週間後、どうしても退院するという娘に担当医は「若い娘さんを危険なところに戻らせたくないので実家に戻したい」と懇願され、自宅に戻しましたが、これから先の不安でいっぱいの中、家族会で学んだ“私は私のことをする”を実行し、普段通り仕事に出かけました。昼休み、娘は自らダルクへ戻ったと連絡が来ます。が、喜んだのもつかの間、帰宅すると行き方が分からないと、家に戻ってしまった娘がいました。私はその夜、家族の自助グループに参加するため途中の駅まで同行し、経路を伝えて片道切符を渡し別れました。娘が無事にダルクにたどり着くよう祈りながら、同じ薬物依存症の家族の仲間とミーティングをしました。“何もしないこと、見守ること、信じることが助けになる”と、そこでも学びました。そして娘は、戻りたくないと言っていた茨城の施設に再度入寮しました。

 その後も娘は順調に回復とはならず、3か月ごとに脱走を繰り返します。

エピソード①

 ある時、何度も脱走をする娘は年配の回復者の中がいいだろうと、北海道のアルコール依存が主の施設へ入寮しましたが、現地の保護司から「自宅に帰りたがっているので引き取ってほしい」と電話が来ました。私は断りましたが、保護司「では、アルバイトをして暮らすので、キャッシュカードを作ってあげてほしい」年末、クリスマスの頃でした。私も夫も「娘とは暮らせません、ダルクにお任せしています」と言うと、年末年始を保護司経営の旅館で公費で過ごさせてくれました。正月明け、保護司からの電話が来たら、私は親として未成年の娘をどうにかしなければいけないのでは?と、悩み苦しんでいた気持ちを家族会の先ゆく仲間に電話しました。「ほら~、娘さんが北の地で、お母さん共依存して~と言っているよ~」と、泣きながら話す私の話を聞いてくれて和ませてくれました。私には無理、STEP1と分かっているのに心は揺れました。その後、夫が断り、今度は私の職場に直接娘から電話が(~_~) 娘「茨城ダルク施設長の電話を教えてください」番号のみ伝えると、茨城ダルクへ再び娘は戻りました。(後にススキノでスリップしていたということを聞きました。)

エピソード②

 娘が19才の時、またダルクを脱走したと連絡が来ました。夜勤で夫は不在の夜、雨戸を閉めようとすると白い影が。娘でした。「帰ってきたよ」私は家族会で勉強していたように「家には入れられません」というと、娘は「保護司に電話したい」と、イライラしだしました。電話を取り上げ、「お母さんは明日仕事だから寝ます」と言うと、娘は「暗くて見えねえんだよー!!家族会なんて信じやがって気持ち悪いんだよ!!」と怒鳴りました。私は泣きながら「お母さんは今家族会しか信じるものがないの!!あなたを愛してるから回復のための病院やダルクのことは助けます、それ以外は一切しません。先月あなたのものはすべて捨てました。あなたの部屋は弟が使っています。では、さようなら」と、雨戸を閉めました。娘は家の壁をどんどん蹴りまくり玄関のガラスドアにはひびが入りました。ガシャン!!室内犬を抱きながら、怖さに震えていました。静かになった家の外、娘はどうしたんだろう?確認したい気持ちを抑え浴室へ。しかし、服を脱いでもここは何をするところなのかも思い出せません。手を離したものの、気になって仕方ありません。必死で“平安の祈り”を唱え、冷静になりました。娘は自分でダルクを出たのだから、自由に娘の生きる道を選ばせるしかない。娘の人生は娘のもの、私の人生は私のもの。家族会で学んだとおり、手を放して娘の力を信じ、幸せを願って祈りました。

エピソード③

 その後、娘は再度自分からダルクへ戻る、脱走するを繰り返しますが、ある時「自立する」と、ダルクの仲間と自主退寮し、1年以上消息、行方すべて分からなくなりましたが、私は無事を祈りながら家族会に通い続けていました。すると、運転免許取得したので、戸籍抄本が欲しいとダルクに連絡があり、私はダルク経由で娘に渡しました。ダルクと相談しながら私は行動するようにました。面倒でも、母の私を頼るのではなく、回復途上の娘とダルクがつながってほしいとの思いでした。未成年なのに、金銭的援助も受けずに1年もクリーンで回復し、免許も取った娘を知り、とても嬉しく、依存症が治った!と安心しました。その後すぐ再使用し、自ら宮崎ダルク入寮を希望しました。回復の手助けはしますの約束通り、ショックでしたが、宮崎ダルクに入寮をお願いしました。依存症は回復はするけど完治はしないと学んだのに勘違いして一喜一憂していました。

 脱走、行方不明の多かった娘はちょうど二十歳になる年でダルク入寮により、奇跡的に成人の祝いもしてもらえて、親としてとても嬉しく感謝をしました。しかし、そのすぐ後に脱走、安定することはなく3か月から1年ごとに脱走入寮を繰り返し、「お宅の娘はダルクを休憩所に使っている」と施設長に笑いながら言われました。何度失敗してもやり直せる、薬をやめたくなったら戻れる場所、ダルク、仲間が娘には与えられていました。

 留守電に娘から「家に帰りたい」と弱々しい消え入るようなメッセージが入っていることもあり、そのたびに私は胸が締め付けられるように苦しくなりましたが、家族会で仲間に聞いてもらい、仲間の同じような経験を聞き、共感しあい、心を落ち着かせていました。娘の状態が悪く、辛そうなときは、夫も私も、またダルクに助けを求め薬をやめる第一歩を踏み出してくれるよう祈りました。未成年で、親の責任という呪縛から、成人したことで楽になったのも事実ですが、色々あっても、何度でも回復にチャレンジしている娘を誇りに思えるようになりました。

家族会に通って5年、娘には娘の、私には私の別々の仲間と回復のプログラムがあると分けて考えられるようになっていました。私は依存症の娘にいつも囚われて自分の人生を生きられなくなっていたことにも気づき、私自身がよりよく生きていくため(薬物依存症者の母として)に、家族会に通いたい。これからの人生にはなくてはならない家族会になっていました。依存症のあなたを産んでよかったと思える幸せな人生を歩みたいと。

娘はその後クリーンが2年続き、仙台の施設で就労プログラム・自立に向かっていきました。そんな時、東日本大震災で行方不明となります。やっとクリーンが続き定着し、希望も見え始めていたのに… はじめはできれば死んでほしい、あなたを産んだことを後悔した私は、どうか生きていてほしいと切に願いました。

To be continued

STORY 1

激動・激変・それなりの平安へと  ~後編                

 2年のクリーンが続いていた娘は、職業訓練の後職探しのため自転車で外出中、2011年3月11日仙台で東日本大震災に遭います。当日は携帯で連絡が取れたと娘の仲間から知りました。施設まで戻るのが大変なら避難所に行くように勧めたそうです。ホッとしたのもつかの間翌日より行方不明になりました。津波、余震、火災、寒冷地の仙台で、1か月避難所にもいない、死亡者リストでも見つかりませんでした(T_T)

 高速道路復旧を待ち、夫と私は捜索に行く予定を立てました。その直後です。『東京にいる』と、娘の仲間に連絡があったことを知りました!?せっかく仕事の休みをもらった私たちは、2年間娘がお世話になったアロー萌木という仙台の施設に、まだまだ復旧できていない被災地へ救援物資を積み向かいました。

 アロー萌木では、クリーンも長く就職・自立へ向けて個室を与えてもらっていましたが、行方不明期間が長くなり、次の入居者準備をするため部屋を片付けたそうです。すると〇万円入りで東京と書いた封筒と薬物使用器材が見つかったそうです。遅かれ早かれ、被災と関係なく東京へ行くつもりだったのかもしれません。そして依存症も再発していました。

 被災した娘は交通網も壊滅した仙台から東京へと着の身着のままでたどり着いたのでした(◎_◎;)?その後、手を放していた私たちには頼ろうとはせず、幻覚も見え始めていた娘は、薬物依存症のミーティング、NAに足を運び、仲間から施設へ戻るよう提案され、自力で茨城ダルク女性シェルターへ戻りました。

 そして再びクリーンが続き回復し始め、自立のためヘルパーの資格をとり、老人介護施設で勤務し、勤め先よりご両親へと、娘の精勤に対してお礼の手紙や、入居者との写真をいただいたりもしました。親である私たちは見守るのみでしたがとても嬉しく思っていました。しばらくして施設を退寮し、一人暮らしを始め勤務を増やしたようです。頑張りすぎたのでしょうか?2度も交通事故を起こし、精神的にも不調となり休職します。心配はしましたが、自ら社会福祉協議会と相談しながら徐々に職場復帰したようでした。事故については、意識がなかったらしく、覚せい剤の後遺症の睡眠障害ではないか?とのことで検査入院をさせたいとダルクから提案があり、入院費用は実家で払い入院しました。しかし、結果の出る前に娘はまた行方不明となりました。途中、ごみ捨ての問題で行政より実家まで問い合わせがきたり、なにか問題のある男性と同棲していたらしく、生活も荒れていたようです。

 その後も娘の動静に関係なく、私と夫は手を放し見守っていましたが、心中は穏やかではなく、心の平安のためにも複数の家族会、フォーラムに参加し生活をしていました。娘は行方不明(家族会では旅中ともいいます)のままでした。

 ある日、川崎の家族会に参加していた私に見知らぬ電話番号から着信がありました。「私、私、事故起こしちゃってさあ〰」とっさに私は、オレオレ詐欺?だと思い、「どなたですか?」と聞くと、「〇〇だよ!!」娘でした。茨城で事故を起こしたとのこと、双方とも命に別状はないのと、遠方でもあり、ずっと音信不通でもあったので、警察に連絡して近い仲間に頼るように提案しましたが、急に電話は切られ、その後は電話はつながらず、結果、相手の方は足の骨折、茨城の回復している仲間に助けていただいたようです。娘はその時お世話になった仲間が施設長をしている回復施設でその後、正職員として働き始めます。何もできなかった私には本当に感謝しかありませんでした。

 事故の時対応しなかったことや、これまで手を放し続けた私を恨んだのでしょう、娘は自ら籍を抜き、私の娘をやめますと言い、LINEをブロックされました。結婚しても同じように籍は抜くので、自立の一歩と私は思うようにしました。娘には愛していることと見守り続けることを伝えましたが、冷たい言葉が返ってきた後、私と娘は断絶状態(氷河期)になりました。フォーラムなどで会っても私を避け続けます。しかし、ダルクの回復した仲間と依存症の施設で順調に仕事を続けている娘の姿を家族会の仲間が写真で送ってくれたり、様子も教えてくれました。自立し、頑張っていることを嬉しく思っていました。

 そんなある日、娘の上司Jさんより「〇万〇円を娘さんに貸してあげてほしい」と頼まれます。娘の問題なのでと断りましたが、裁判にもなった携帯代など借金の清算を頑張ってしたけれど、給料も少なく、あとこれだけどうにもならず困っているとのこと。どうやら娘の回復のためには必要らしいこともわかりました。迷いました。娘から絶交してきているのにJさんを介して頼んでくることもよほどのことだとは思いました。(すぐ娘の気持ちに寄り添って助けたくなる共依存という私の癖も出ます)また、Jさんも娘に親身になっているので共依存気味で甘くなっているのでは?など色々考えました。私はその時、茨城の施設長のYさんに相談しました。Yさんは「クリーンで回復し頑張って自立している娘さんを信用してあげることも必要では」と提案してくれました。私は娘から直接私や夫に頼むことと、娘なりの返済計画を教えてもらうことを条件に貸すことにしました。夫は多額ではないので返済計画なんて別に要らないと言いましたが、自立している娘を信頼し大人として扱うためにそうしたいことを伝えました。その後、娘から電話が来て、必要な理由と返済計画を聞き、端数も変えずに本当に必要な金額を振り込み貸しました。(娘の自立の一助になるかはわかりませんが、ダルクの提案に従った私です。)私は「困っているときに援助できて嬉しいです、ちゃんと返してください」と伝えました。

 クリーンが続き、社会復帰している娘にも必ずダルクや家族会の仲間と相談しながら慎重に対応しないと、私は困っていると聞いただけですぐ助けたくなってしまう(共依存)。それが娘の自立や回復を妨げてしまった。回復してほしいという下心のある援助だと、その後順調にいかないと裏切られたとショックを受けて悲しくなったり、恨んでしまうことになり、もっとねじれた不安定な親子関係になってしまうと学んだからです。

 しかし、娘の恩人ともなったJさんは癌で闘病することとなり、亡くなりました。付き添い続けた娘の哀しみは計り知れなかったと思います。Jさんの葬儀で会った娘は処方薬でよれて、フワフワと歩行していました。人一倍優しい娘は受け入れられなかったのでしょう。依存症の再発です。

 その後、メニエール病にもなり、仕事は遅刻、無断欠勤が多くなったようです。茨城ダルク代表I氏より医療保護入院が必要になりそうだからと、入院承諾書の準備もしていました。(回復に必要なことはできる限り助けると伝えてあるので、ダルクからの提案通りにしようと思っていました)

 施設正職員になり2年が過ぎた春のことです。もっと給料の高いところに転職すると言って退職したと聞きました。メニエール、依存症の再発、その状態で・・・何故?とは思いますが、娘自身が決めたこと、娘の人生なので、祈り見守るだけしかできません。私は変わらず3か所の家族会や他の自助グループに通いながら、自分らしく人生を生きていく、ただそれを続けました。

 すると秋口のある日「お腹に子供がいます、相手は〇〇さんで、結婚したい」と自宅に電話が。エーッ‼〇〇さん!?すごく知り合いの、クリーンの長い回復当事者で、お相手の両親は茨城で共に家族会のプログラムもした仲の良い仲間の方でした。確かに娘は辛い時Aさんに相談していたことは判っていましたが、しばらくはショーゲキで、キョーガクで、驚きでグルグルと考えてしまいました(@_@)私と自ら絶交し、つながりはお金を貸した時だけで、依存症も再発し、精神科に入院も考えられた娘からの突然の連絡でした。

 娘の人生は私の知らないところで急転していたのです。娘の夫となるAさんもアディクトです。考えてしまうと不安にもなりますが、私は、娘が選んだ人生であれば、どんな人生であろうと尊敬し認めると家族会で学んで決めていた私ですが、家族会のミーティングの初めの言葉、ゲシュタルトの祈り

【私は私、あなたはあなた、私は私のことをする、あなたはあなたのことをする、私はあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけではない、あなたは私の期待に応えるためにこの世に生きているわけではない、あなたはあなた、私は私、偶然二人が出会えばそれはすばらしいこと、出会わなければ仕方のないこと】

心底、娘の幸せな報告に嬉しい私でした。「おめでとう  よかったね♡」と言いましたが、私と娘の関係はLINEもブロックのままで、そう簡単には戻りません。夫となるAさんを介しての娘とのやり取りだけ再開しました。

 冬になり、両家顔合わせ(10年以上前より旧知ですが)の食事会をしました。娘はお腹も目立つようになっていましたが、挨拶しても目を合わせずとても気まずい感じです。(先方の両親は仲間なので、状況を把握しているので助かりました)緊張した祝いの席でしたが、出産の話になって、「よろしければ産後の手伝いを私がしたいと思うのですが」と提案してみました。娘は頼むつもりもなかったようですが、Aさんはその時は手伝ってもらうことを勧めてくれていたようで、娘「じゃあ、お願いします」とぎこちない返事がありました。

 その時より、私と娘は直接連絡も取れるようになり、止まっていた時計は、Aさんとの結婚・妊娠をきっかけに動き始め、氷河期も終わりとなりました。東日本大震災で死んでしまったかもと思っていた娘、依存症も何度も再発していた娘が子供を産み私は祖母になる。母と娘の関係も戻り始めて奇跡のようでした。 Aさんは、処方薬でよれていた娘を自分のところに連れていき、ゆっくりするよう気遣い、同棲を始めて、子供が授かったので、産んでほしい、結婚しようとなったと話しました。ミラクルです。その後、早産気味になったので、私が助産婦であることも幸いし、LINEのやり取りもたくさんするようになり、無事出産できました。産後は、コロナ禍、緊急事態宣言のため外出もできなかったのが幸いし、母と娘と孫の密な時間を持つことになり、育児は娘が中心に行い、相談に乗りながら他愛のない世間話をして家事を手伝い、日々娘が一人暮らしの時支えてくれた犬と猫にも癒されながら、母と娘の関係が再構築できていきました。

 一緒に過ごして分かったことは、私がステップ1(無力)で娘の人生を娘に任せ見守り続けている間に、たくさんの仲間や支援者に助けられていたことも分かり感謝しました。そして、想像を絶する体験をしてきた娘は、しっかり成長していました。薬物のクリーンは短いです。母になった分、ストレスも多く生活も大変で、再発もあるかもしれません。でも、私が手を放していた間にたくさんのサポーター(ダルク・NAで知り合った仲間、支援機関etc.)が娘にはできていて、12ステッププログラムも使って生きている。私も同じように、娘のおかげで全国世界に仲間ができて12ステッププログラム(家族)も使い今日一日を生きている。私は私、あなたはあなた、12ステップで日々点検し自分にフォーカスを合わせ、自分の人生を生きていく大切さ♡何か問題が起こるとすぐに助けたくなる、おせっかいで自分のことを後回しにしてしまう(共依存)私。それが娘を甘やかし力を奪ってしまうことになると学んで本当に良かった。

 夫は私と同じく親なので、今までのことがどうであろうと娘を愛し、嬉しくて仕方がないようでした。でも、息子(本人の弟)は違いました。孫(息子には甥となります)が生まれた後、結婚のことは伝えていましたが、赤ちゃんの写真をLINEで報告したときです。「俺には関係ないから送ってこないでほしい。送ってくるならお母さんとのLINEをブロックする」と返信が来ました。ショックではありましたが、すぐ送信した写真は削除しました。孫の顔を見て有頂天になっていた私に、現実はそんなに甘くないことを教えてくれました。息子は姉のことで、親以上に辛い思いをしているのでしょう。「ダメ絶対の薬を使ったあんな奴は人間じゃない!!」と言っていたあのころの気持ちを忘れていないのです。もちろん息子が成人したのち、家族会に誘ったこともありましたが、「自分とは関係ない!!」とかたくなです。「お母さんは家族会に行くと楽しそうだね、遊びに行ってるの?」と言われたとき、私が「そうだね、行くと元気になれるから、楽しくなっているけれど、これ以上振り回されないように勉強に行っている」と伝えると、息子に「お母さんは本当に振り回されたよね!」と言われたこともありました。

 笑顔もない地獄のような家庭環境の中で学生時代を過ごし、大人になり自立した息子に、今これ以上理解してほしいとは言えません。息子に対してもステップを使い見守りお任せしようと思っています。息子は息子、娘は娘で人生を生きていくときに、いつの日か兄弟関係が再構築できる時がくればいいなあと思っています。私の問題ではないので、息子と娘に、そして神様にお任せしようと思います。そして、息子のことも信頼尊敬しながら見守っていけたらと思っています。

家族会にたどり着いた時の私は、薬物依存症の母、世界で一番不幸で、生きていたくなかった。そのどん底の時を忘れないで、

“依存症は慢性で進行性の病、死ぬこともある。完治はしないけれど回復はできる”

“お母さんには治せない、娘はかえられない。まずは依存症を学び、自分自身を変えて笑顔を取り戻すこと”

たくさんの気づきがあって、家族会で学んだ私はそれなりに元気になれた。共依存を自覚しているので、回復途上の娘とも適度な距離を保ちながらより良い関係を今日一日続けていければそれで良し。これからも色々なことがあるのだろう。でも大丈夫♡

娘には依存症回復の仲間とプログラムがある。私にも家族の回復プログラムと家族会や自助グループの仲間がいるから。

傷ついた家族を元気にする居場所、家族会ありがとう。仲間に感謝。

平安の祈り

【神様私にお与えください

自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを

変えられるものは変えていく勇気を

そして二つのものを見分ける賢さを】