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体験談

STORY 1

私の家族会                    くろかわななこ

一筋の光・家族会との出会い~前編                   

 私には薬物依存症の娘がいる。

 娘は、中学で摂食障害となり、精神科閉鎖病棟へ2年間入院、自殺未遂、隔離室、経管栄養。娘の生命、将来、何の希望もなくなり、改善しないまま夜間高校へ入学、やせ薬覚せい剤を使い、夜遊びや不良行動、私には暴言を吐く。もうどうにもならない状態になっていった。

 夫と相談し、地元の警察に娘を連れていき、覚せい剤使用で逮捕してもらいました。鑑別所で反省を見せた娘に希望を感じたのも束の間、夜遊び、暴言、そして再使用。今度は私だけで娘を連れて出頭し、覚せい剤使用で再逮捕してもらいました。自殺念慮もあるため、医療少年院へ送られ、その後群馬の榛名女子少年院へ。毎月泣きながら面会に行くものの、「覚せい剤は再発しやすいんだって」と娘から言われショックでした。坂を転がるように落ちていく娘に親として必死で対応していましたが、ダメ!ゼッタイ!!人間やめますか!!の薬を使った娘の親である私は、人に会いたくない、話したくない、買い物にも行きずらくなり、趣味のことをする気にもならない。いっそ私も一緒に死んでしまいたいと思う最悪の状態になっていました。でも、本人の弟(中学2年から不登校になった)を残してはいけないと思いとどまり、食事の味も季節を感じることもない生きる屍のようでした。娘が少年院にずっといてくれればと願うばかりでしたが、娘は「私は売人と連絡してしまうから携帯はいらない」と言っていたのに、出院すると人が変わったように私を脅し、携帯を要求、夜遊びが始まりました(T_T) もし、また覚せい剤を使ったら、夫は退職しかないと言い、私は娘の一挙一動が怖くてたまりませんでした。保護司さんとの面会ではおとなしく、「いい娘さんですね」と言われるも、一歩外に出ると塀を蹴り、「ふざけんじゃねえ、クソババア!!」私は悪魔を生んでしまったんだと思い、自分の人生、何もかもを嘆き絶望の底にいました。

 そんな時、娘は夜回り先生を頼り、「ダルクに行きたい」と言いました。ダルク???16年前まだダルクは世間に知られていませんでしたが、預かってくれるというダルクに、再使用を繰り返す娘を、藁をもすがる思いで、夫にも無断で始発電車で連れていきました。分かれた後、私にはどうすることもできないと思いつつも、子供を捨てた情けなさと悲しさに苛まされました。そのダルクから、「お母さんは家族会に行ってください!」と提案されたのです。

 毎月第3土日泊りの茨城ダルク家族会、初参加は衝撃でした。やくざ関係の家族がいる怖いところと.思っていた家族会は、100名程の普通の親御さんばかりでした。でも、話を聞くと、息子・娘が精神科・刑務所複数回や行方不明など壮絶な体験ばかりでしたが、不思議と笑顔でした。私は自分自身の格好も気にかけられない、笑うこともできない暗闇の中で息をしているような状態なのに、家族会の方はひどい状態を話しながら笑い、活き活きと生きている?! 私はその家族会で初めて誰にも話せない我が家の娘の薬物のことを震えながら話し、聞いてもらうことができました。そして、家族会には薬物依存症回復途上の本人がスタッフとして手伝っていて、私たちにコーヒー、お茶をサービスしてくれました。どう見ても薬物を使ったとは思えない普通の好青年ばかりでした。第1回目のビギナーの部屋での学びは、「あなたたちの子どもは薬物依存症という一生治らない病気で、死ぬこともある。家族には治せない、でも、回復はできる!!」エッ!!自殺を止めるのもムリ、犯罪者の親、育て方が悪くて親失格としか思っていなかった。私は依存症という病人の親で、親には治せない。涙がとめどなくあふれた。でも、ここ家族会には、ダルクの回復者、そして同じ経験をしたのに笑っている親がいた。一筋の光・希望を与えてくれた。とにかく通ってみよう♡と思った。

 それから家族会に出るたびに苦しさを話し楽になった。世間の常識とは違う、正しい依存症という病気も理解していった。16歳で自分からダルクへつながった娘がいたから私は家族会に繋がる事ができた奇跡。

 自分から行く人はほとんどいないというダルクへ自らつながった娘。うまくいってくれればと願ったが、現実は、依存症はそんなに甘くない。すぐ回復などしない。実際体験し、へこたれそうになった時も、とにかく家族会に参加し、自分を保つのがやっとだった。

 脱走、行方不明、自殺未遂と地獄は続く終わりの見えない不安、家族も精神的に追い込まれ、苦しく辛い。世間の風は冷たい。そんな私には家族会が心の支えとなっていた。

To be continued

娘の回復を祈って家族は何をすればいいのか?葛藤~中編

STORY 1

娘の回復を祈って・家族は何をしたらいいのか?葛藤~.中編

 娘は薬物をやめたかったのでしょう。自ら16歳でダルクへ入寮しました。

 そして、母である私は茨城ダルク家族会へ通い始めたのです。

 自ら回復施設に入る人は珍しいので「大丈夫!!」と言われましたが、すごく頑張るけれど、少しでもダメなことがあるとゼロか100、白黒思考、ネガティブになる娘(―ー;)

予感的中、3か月後自殺未遂!病院搬送、事後処理、ダルクの仲間が世話をしてくれました。私は仕事を休まないで、迷惑をかけずに済みました。ただただ感謝しました。命は助かり3か月後、今度は脱走し行方不明となりました。もう何が何だかわからない不安な毎日。監禁事件!!身元不明の事件!!ニュースのたびに最悪の想像をしました(T_T)。夜風が吹き雨が降れば…心配で眠れない時もありました。

 でも、家族会の仲間の話をたくさん聞いていたことと、私の途方もない不安を聞いてくれる仲間がいたことで、睡眠薬・抗不安薬は使わずに生活できました。しかし、世間へ顔向けができない!覚せい剤をまた使用しているかもしれない娘の親の私は外出や人と会うのを避けるようになりました。最小限の買い物を人と会わないように注意し、友人やサークルとの付き合いもやめ、仕事だけは生きるため、そしてこの状況を忘れようと、ワーカホリック的にのめりこみ、頭痛薬を常用しながら、どうしようもない不安から逃れるように複数の家族会や自助グループに通い、めまいで倒れたりしました。

 しばらくして娘は、夜回り先生を再度頼りました。元の茨城の施設には戻りたくないという娘を、夜回り先生・茨城ダルク施設長の提案で佐賀県の精神病院へ送っていきました。しかし、入院を承諾したはずの娘が待合室で豹変(>_<)「なんでまた!!精神病院なんだよ!!逃げて、柳川の夜の街に行ってやる!!」私はオロオロするばかりでしたが、どうにか入院できて、祈るのみでした。しかし、ほっとする間もなく、1週間後、どうしても退院するという娘に担当医は「若い娘さんを危険なところに戻らせたくないので実家に戻したい」と懇願され、自宅に戻しましたが、これから先の不安でいっぱいの中、家族会で学んだ“私は私のことをする”を実行し、普段通り仕事に出かけました。昼休み、娘は自らダルクへ戻ったと連絡が来ます。が、喜んだのもつかの間、帰宅すると行き方が分からないと、家に戻ってしまった娘がいました。私はその夜、家族の自助グループに参加するため途中の駅まで同行し、経路を伝えて片道切符を渡し別れました。娘が無事にダルクにたどり着くよう祈りながら、同じ薬物依存症の家族の仲間とミーティングをしました。“何もしないこと、見守ること、信じることが助けになる”と、そこでも学びました。そして娘は、戻りたくないと言っていた茨城の施設に再度入寮しました。

 その後も娘は順調に回復とはならず、3か月ごとに脱走を繰り返します。

エピソード①

 ある時、何度も脱走をする娘は年配の回復者の中がいいだろうと、北海道のアルコール依存が主の施設へ入寮しましたが、現地の保護司から「自宅に帰りたがっているので引き取ってほしい」と電話が来ました。私は断りましたが、保護司「では、アルバイトをして暮らすので、キャッシュカードを作ってあげてほしい」年末、クリスマスの頃でした。私も夫も「娘とは暮らせません、ダルクにお任せしています」と言うと、年末年始を保護司経営の旅館で公費で過ごさせてくれました。正月明け、保護司からの電話が来たら、私は親として未成年の娘をどうにかしなければいけないのでは?と、悩み苦しんでいた気持ちを家族会の先ゆく仲間に電話しました。「ほら~、娘さんが北の地で、お母さん共依存して~と言っているよ~」と、泣きながら話す私の話を聞いてくれて和ませてくれました。私には無理、STEP1と分かっているのに心は揺れました。その後、夫が断り、今度は私の職場に直接娘から電話が(~_~) 娘「茨城ダルク施設長の電話を教えてください」番号のみ伝えると、茨城ダルクへ再び娘は戻りました。(後にススキノでスリップしていたということを聞きました。)

エピソード②

 娘が19才の時、またダルクを脱走したと連絡が来ました。夜勤で夫は不在の夜、雨戸を閉めようとすると白い影が。娘でした。「帰ってきたよ」私は家族会で勉強していたように「家には入れられません」というと、娘は「保護司に電話したい」と、イライラしだしました。電話を取り上げ、「お母さんは明日仕事だから寝ます」と言うと、娘は「暗くて見えねえんだよー!!家族会なんて信じやがって気持ち悪いんだよ!!」と怒鳴りました。私は泣きながら「お母さんは今家族会しか信じるものがないの!!あなたを愛してるから回復のための病院やダルクのことは助けます、それ以外は一切しません。先月あなたのものはすべて捨てました。あなたの部屋は弟が使っています。では、さようなら」と、雨戸を閉めました。娘は家の壁をどんどん蹴りまくり玄関のガラスドアにはひびが入りました。ガシャン!!室内犬を抱きながら、怖さに震えていました。静かになった家の外、娘はどうしたんだろう?確認したい気持ちを抑え浴室へ。しかし、服を脱いでもここは何をするところなのかも思い出せません。手を離したものの、気になって仕方ありません。必死で“平安の祈り”を唱え、冷静になりました。娘は自分でダルクを出たのだから、自由に娘の生きる道を選ばせるしかない。娘の人生は娘のもの、私の人生は私のもの。家族会で学んだとおり、手を放して娘の力を信じ、幸せを願って祈りました。

エピソード③

 その後、娘は再度自分からダルクへ戻る、脱走するを繰り返しますが、ある時「自立する」と、ダルクの仲間と自主退寮し、1年以上消息、行方すべて分からなくなりましたが、私は無事を祈りながら家族会に通い続けていました。すると、運転免許取得したので、戸籍抄本が欲しいとダルクに連絡があり、私はダルク経由で娘に渡しました。ダルクと相談しながら私は行動するようにました。面倒でも、母の私を頼るのではなく、回復途上の娘とダルクがつながってほしいとの思いでした。未成年なのに、金銭的援助も受けずに1年もクリーンで回復し、免許も取った娘を知り、とても嬉しく、依存症が治った!と安心しました。その後すぐ再使用し、自ら宮崎ダルク入寮を希望しました。回復の手助けはしますの約束通り、ショックでしたが、宮崎ダルクに入寮をお願いしました。依存症は回復はするけど完治はしないと学んだのに勘違いして一喜一憂していました。

 脱走、行方不明の多かった娘はちょうど二十歳になる年でダルク入寮により、奇跡的に成人の祝いもしてもらえて、親としてとても嬉しく感謝をしました。しかし、そのすぐ後に脱走、安定することはなく3か月から1年ごとに脱走入寮を繰り返し、「お宅の娘はダルクを休憩所に使っている」と施設長に笑いながら言われました。何度失敗してもやり直せる、薬をやめたくなったら戻れる場所、ダルク、仲間が娘には与えられていました。

 留守電に娘から「家に帰りたい」と弱々しい消え入るようなメッセージが入っていることもあり、そのたびに私は胸が締め付けられるように苦しくなりましたが、家族会で仲間に聞いてもらい、仲間の同じような経験を聞き、共感しあい、心を落ち着かせていました。娘の状態が悪く、辛そうなときは、夫も私も、またダルクに助けを求め薬をやめる第一歩を踏み出してくれるよう祈りました。未成年で、親の責任という呪縛から、成人したことで楽になったのも事実ですが、色々あっても、何度でも回復にチャレンジしている娘を誇りに思えるようになりました。

家族会に通って5年、娘には娘の、私には私の別々の仲間と回復のプログラムがあると分けて考えられるようになっていました。私は依存症の娘にいつも囚われて自分の人生を生きられなくなっていたことにも気づき、私自身がよりよく生きていくため(薬物依存症者の母として)に、家族会に通いたい。これからの人生にはなくてはならない家族会になっていました。依存症のあなたを産んでよかったと思える幸せな人生を歩みたいと。

娘はその後クリーンが2年続き、仙台の施設で就労プログラム・自立に向かっていきました。そんな時、東日本大震災で行方不明となります。やっとクリーンが続き定着し、希望も見え始めていたのに… はじめはできれば死んでほしい、あなたを産んだことを後悔した私は、どうか生きていてほしいと切に願いました。

To be continued

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