激動・激変・それなりの平安へと ~後編
2年のクリーンが続いていた娘は、職業訓練の後職探しのため自転車で外出中、2011年3月11日仙台で東日本大震災に遭います。当日は携帯で連絡が取れたと娘の仲間から知りました。施設まで戻るのが大変なら避難所に行くように勧めたそうです。ホッとしたのもつかの間翌日より行方不明になりました。津波、余震、火災、寒冷地の仙台で、1か月避難所にもいない、死亡者リストでも見つかりませんでした(T_T)
高速道路復旧を待ち、夫と私は捜索に行く予定を立てました。その直後です。『東京にいる』と、娘の仲間に連絡があったことを知りました!?せっかく仕事の休みをもらった私たちは、2年間娘がお世話になったアロー萌木という仙台の施設に、まだまだ復旧できていない被災地へ救援物資を積み向かいました。
アロー萌木では、クリーンも長く就職・自立へ向けて個室を与えてもらっていましたが、行方不明期間が長くなり、次の入居者準備をするため部屋を片付けたそうです。すると〇万円入りで東京と書いた封筒と薬物使用器材が見つかったそうです。遅かれ早かれ、被災と関係なく東京へ行くつもりだったのかもしれません。そして依存症も再発していました。
被災した娘は交通網も壊滅した仙台から東京へと着の身着のままでたどり着いたのでした(◎_◎;)?その後、手を放していた私たちには頼ろうとはせず、幻覚も見え始めていた娘は、薬物依存症のミーティング、NAに足を運び、仲間から施設へ戻るよう提案され、自力で茨城ダルク女性シェルターへ戻りました。
そして再びクリーンが続き回復し始め、自立のためヘルパーの資格をとり、老人介護施設で勤務し、勤め先よりご両親へと、娘の精勤に対してお礼の手紙や、入居者との写真をいただいたりもしました。親である私たちは見守るのみでしたがとても嬉しく思っていました。しばらくして施設を退寮し、一人暮らしを始め勤務を増やしたようです。頑張りすぎたのでしょうか?2度も交通事故を起こし、精神的にも不調となり休職します。心配はしましたが、自ら社会福祉協議会と相談しながら徐々に職場復帰したようでした。事故については、意識がなかったらしく、覚せい剤の後遺症の睡眠障害ではないか?とのことで検査入院をさせたいとダルクから提案があり、入院費用は実家で払い入院しました。しかし、結果の出る前に娘はまた行方不明となりました。途中、ごみ捨ての問題で行政より実家まで問い合わせがきたり、なにか問題のある男性と同棲していたらしく、生活も荒れていたようです。
その後も娘の動静に関係なく、私と夫は手を放し見守っていましたが、心中は穏やかではなく、心の平安のためにも複数の家族会、フォーラムに参加し生活をしていました。娘は行方不明(家族会では旅中ともいいます)のままでした。
ある日、川崎の家族会に参加していた私に見知らぬ電話番号から着信がありました。「私、私、事故起こしちゃってさあ〰」とっさに私は、オレオレ詐欺?だと思い、「どなたですか?」と聞くと、「〇〇だよ!!」娘でした。茨城で事故を起こしたとのこと、双方とも命に別状はないのと、遠方でもあり、ずっと音信不通でもあったので、警察に連絡して近い仲間に頼るように提案しましたが、急に電話は切られ、その後は電話はつながらず、結果、相手の方は足の骨折、茨城の回復している仲間に助けていただいたようです。娘はその時お世話になった仲間が施設長をしている回復施設でその後、正職員として働き始めます。何もできなかった私には本当に感謝しかありませんでした。
事故の時対応しなかったことや、これまで手を放し続けた私を恨んだのでしょう、娘は自ら籍を抜き、私の娘をやめますと言い、LINEをブロックされました。結婚しても同じように籍は抜くので、自立の一歩と私は思うようにしました。娘には愛していることと見守り続けることを伝えましたが、冷たい言葉が返ってきた後、私と娘は断絶状態(氷河期)になりました。フォーラムなどで会っても私を避け続けます。しかし、ダルクの回復した仲間と依存症の施設で順調に仕事を続けている娘の姿を家族会の仲間が写真で送ってくれたり、様子も教えてくれました。自立し、頑張っていることを嬉しく思っていました。
そんなある日、娘の上司Jさんより「〇万〇円を娘さんに貸してあげてほしい」と頼まれます。娘の問題なのでと断りましたが、裁判にもなった携帯代など借金の清算を頑張ってしたけれど、給料も少なく、あとこれだけどうにもならず困っているとのこと。どうやら娘の回復のためには必要らしいこともわかりました。迷いました。娘から絶交してきているのにJさんを介して頼んでくることもよほどのことだとは思いました。(すぐ娘の気持ちに寄り添って助けたくなる共依存という私の癖も出ます)また、Jさんも娘に親身になっているので共依存気味で甘くなっているのでは?など色々考えました。私はその時、茨城の施設長のYさんに相談しました。Yさんは「クリーンで回復し頑張って自立している娘さんを信用してあげることも必要では」と提案してくれました。私は娘から直接私や夫に頼むことと、娘なりの返済計画を教えてもらうことを条件に貸すことにしました。夫は多額ではないので返済計画なんて別に要らないと言いましたが、自立している娘を信頼し大人として扱うためにそうしたいことを伝えました。その後、娘から電話が来て、必要な理由と返済計画を聞き、端数も変えずに本当に必要な金額を振り込み貸しました。(娘の自立の一助になるかはわかりませんが、ダルクの提案に従った私です。)私は「困っているときに援助できて嬉しいです、ちゃんと返してください」と伝えました。
クリーンが続き、社会復帰している娘にも必ずダルクや家族会の仲間と相談しながら慎重に対応しないと、私は困っていると聞いただけですぐ助けたくなってしまう(共依存)。それが娘の自立や回復を妨げてしまった。回復してほしいという下心のある援助だと、その後順調にいかないと裏切られたとショックを受けて悲しくなったり、恨んでしまうことになり、もっとねじれた不安定な親子関係になってしまうと学んだからです。
しかし、娘の恩人ともなったJさんは癌で闘病することとなり、亡くなりました。付き添い続けた娘の哀しみは計り知れなかったと思います。Jさんの葬儀で会った娘は処方薬でよれて、フワフワと歩行していました。人一倍優しい娘は受け入れられなかったのでしょう。依存症の再発です。
その後、メニエール病にもなり、仕事は遅刻、無断欠勤が多くなったようです。茨城ダルク代表I氏より医療保護入院が必要になりそうだからと、入院承諾書の準備もしていました。(回復に必要なことはできる限り助けると伝えてあるので、ダルクからの提案通りにしようと思っていました)
施設正職員になり2年が過ぎた春のことです。もっと給料の高いところに転職すると言って退職したと聞きました。メニエール、依存症の再発、その状態で・・・何故?とは思いますが、娘自身が決めたこと、娘の人生なので、祈り見守るだけしかできません。私は変わらず3か所の家族会や他の自助グループに通いながら、自分らしく人生を生きていく、ただそれを続けました。
すると秋口のある日「お腹に子供がいます、相手は〇〇さんで、結婚したい」と自宅に電話が。エーッ‼〇〇さん!?すごく知り合いの、クリーンの長い回復当事者で、お相手の両親は茨城で共に家族会のプログラムもした仲の良い仲間の方でした。確かに娘は辛い時Aさんに相談していたことは判っていましたが、しばらくはショーゲキで、キョーガクで、驚きでグルグルと考えてしまいました(@_@)私と自ら絶交し、つながりはお金を貸した時だけで、依存症も再発し、精神科に入院も考えられた娘からの突然の連絡でした。
娘の人生は私の知らないところで急転していたのです。娘の夫となるAさんもアディクトです。考えてしまうと不安にもなりますが、私は、娘が選んだ人生であれば、どんな人生であろうと尊敬し認めると家族会で学んで決めていた私ですが、家族会のミーティングの初めの言葉、ゲシュタルトの祈り
【私は私、あなたはあなた、私は私のことをする、あなたはあなたのことをする、私はあなたの期待に応えるためにこの世に生きているわけではない、あなたは私の期待に応えるためにこの世に生きているわけではない、あなたはあなた、私は私、偶然二人が出会えばそれはすばらしいこと、出会わなければ仕方のないこと】
心底、娘の幸せな報告に嬉しい私でした。「おめでとう 祝 よかったね♡」と言いましたが、私と娘の関係はLINEもブロックのままで、そう簡単には戻りません。夫となるAさんを介しての娘とのやり取りだけ再開しました。
冬になり、両家顔合わせ(10年以上前より旧知ですが)の食事会をしました。娘はお腹も目立つようになっていましたが、挨拶しても目を合わせずとても気まずい感じです。(先方の両親は仲間なので、状況を把握しているので助かりました)緊張した祝いの席でしたが、出産の話になって、「よろしければ産後の手伝いを私がしたいと思うのですが」と提案してみました。娘は頼むつもりもなかったようですが、Aさんはその時は手伝ってもらうことを勧めてくれていたようで、娘「じゃあ、お願いします」とぎこちない返事がありました。
その時より、私と娘は直接連絡も取れるようになり、止まっていた時計は、Aさんとの結婚・妊娠をきっかけに動き始め、氷河期も終わりとなりました。東日本大震災で死んでしまったかもと思っていた娘、依存症も何度も再発していた娘が子供を産み私は祖母になる。母と娘の関係も戻り始めて奇跡のようでした。 Aさんは、処方薬でよれていた娘を自分のところに連れていき、ゆっくりするよう気遣い、同棲を始めて、子供が授かったので、産んでほしい、結婚しようとなったと話しました。ミラクルです。その後、早産気味になったので、私が助産婦であることも幸いし、LINEのやり取りもたくさんするようになり、無事出産できました。産後は、コロナ禍、緊急事態宣言のため外出もできなかったのが幸いし、母と娘と孫の密な時間を持つことになり、育児は娘が中心に行い、相談に乗りながら他愛のない世間話をして家事を手伝い、日々娘が一人暮らしの時支えてくれた犬と猫にも癒されながら、母と娘の関係が再構築できていきました。
一緒に過ごして分かったことは、私がステップ1(無力)で娘の人生を娘に任せ見守り続けている間に、たくさんの仲間や支援者に助けられていたことも分かり感謝しました。そして、想像を絶する体験をしてきた娘は、しっかり成長していました。薬物のクリーンは短いです。母になった分、ストレスも多く生活も大変で、再発もあるかもしれません。でも、私が手を放していた間にたくさんのサポーター(ダルク・NAで知り合った仲間、支援機関etc.)が娘にはできていて、12ステッププログラムも使って生きている。私も同じように、娘のおかげで全国世界に仲間ができて12ステッププログラム(家族)も使い今日一日を生きている。私は私、あなたはあなた、12ステップで日々点検し自分にフォーカスを合わせ、自分の人生を生きていく大切さ♡何か問題が起こるとすぐに助けたくなる、おせっかいで自分のことを後回しにしてしまう(共依存)私。それが娘を甘やかし力を奪ってしまうことになると学んで本当に良かった。
夫は私と同じく親なので、今までのことがどうであろうと娘を愛し、嬉しくて仕方がないようでした。でも、息子(本人の弟)は違いました。孫(息子には甥となります)が生まれた後、結婚のことは伝えていましたが、赤ちゃんの写真をLINEで報告したときです。「俺には関係ないから送ってこないでほしい。送ってくるならお母さんとのLINEをブロックする」と返信が来ました。ショックではありましたが、すぐ送信した写真は削除しました。孫の顔を見て有頂天になっていた私に、現実はそんなに甘くないことを教えてくれました。息子は姉のことで、親以上に辛い思いをしているのでしょう。「ダメ絶対の薬を使ったあんな奴は人間じゃない!!」と言っていたあのころの気持ちを忘れていないのです。もちろん息子が成人したのち、家族会に誘ったこともありましたが、「自分とは関係ない!!」とかたくなです。「お母さんは家族会に行くと楽しそうだね、遊びに行ってるの?」と言われたとき、私が「そうだね、行くと元気になれるから、楽しくなっているけれど、これ以上振り回されないように勉強に行っている」と伝えると、息子に「お母さんは本当に振り回されたよね!」と言われたこともありました。
笑顔もない地獄のような家庭環境の中で学生時代を過ごし、大人になり自立した息子に、今これ以上理解してほしいとは言えません。息子に対してもステップを使い見守りお任せしようと思っています。息子は息子、娘は娘で人生を生きていくときに、いつの日か兄弟関係が再構築できる時がくればいいなあと思っています。私の問題ではないので、息子と娘に、そして神様にお任せしようと思います。そして、息子のことも信頼尊敬しながら見守っていけたらと思っています。
家族会にたどり着いた時の私は、薬物依存症の母、世界で一番不幸で、生きていたくなかった。そのどん底の時を忘れないで、
“依存症は慢性で進行性の病、死ぬこともある。完治はしないけれど回復はできる”
“お母さんには治せない、娘はかえられない。まずは依存症を学び、自分自身を変えて笑顔を取り戻すこと”
たくさんの気づきがあって、家族会で学んだ私はそれなりに元気になれた。共依存を自覚しているので、回復途上の娘とも適度な距離を保ちながらより良い関係を今日一日続けていければそれで良し。これからも色々なことがあるのだろう。でも大丈夫♡
娘には依存症回復の仲間とプログラムがある。私にも家族の回復プログラムと家族会や自助グループの仲間がいるから。
傷ついた家族を元気にする居場所、家族会ありがとう。仲間に感謝。
平安の祈り
【神様私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを】